陰翳礼賛~chiaroscuro~

Cinematographer 早坂伸 (Shin Hayasaka、JSC) 

■佐々部清監督のこと

 

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 佐々部清監督が急逝されて初七日を迎えた。

 3月31日、秋に撮影予定だった映画の資金集めで下関に帰郷されていて心疾患で逝去された。「佐々部組」の残されたスタッフ・キャストたちはキツネにつままれたようだ。もしくは突然悲しみの感情に打ちひしがれる。非常に情緒不安定だ。監督はせっかち過ぎる。

 「カーット!!  はい、現場移動!」

 そんな感じで天国まで逝ってしまわれた。エイプリルフールのジョークとしては1日早い。

 さて、なにから書こう。書いてる本人が情緒不安定だからしょうがない。筆(キーボード)の赴くまま、とりとめもなくこの章をつむぐ(たぶん、あとで消したくなる)。

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初コンビ作品『群青色の、とおり道』('15) 撮影風景。腕を組んで偉そうな筆者

 そもそも自分は「○○組のカメラマン」という言われ方を好まない。仕事は来た順番に受けるし、様々な監督と組むことで自分の引き出しを増やすことを座右の銘としてきた。そのなかでもひと回り以上年の離れた監督と組むときは刺激的だ。同年代の人間は見てきたものや育ってきた社会情勢が同じなため、価値観を共有しやすい。それがひと回り、ときには二回りほど離れている年下の女性監督などと組む際はさすがに緊張する。「会話が成立しなかったらどうしよう」という恐れだ。さいわいにも今まで組んだ女性監督とは皆話が通じ杞憂に終わってはいる。

 最も嬉しいのは年上の監督と組まされるときだ。キャリアも技術もある監督と仕事をすることは吸収できるものが頗る多い。プロデューサーに佐々部組に誘われたときは「マジか、、」とさすがに背筋がシュッとする思いだった。『群青色の、とおり道』は低予算な地方映画であったため、監督は「いつもの佐々部組スタッフは使えないよ。自分たちでスタッフィングして」とプロデューサーに宿題を与えた。なぜプロデューサーらはほぼ面識がない自分に白羽の矢を立てたのかはいまだに謎だ。

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木崎駅の撮影にて。全編単焦点レンズ撮影のためアングルファインダーは必須

 最初の印象は「古めかしく、ベタだな」ということだった。オンの芝居をオンで撮ることに恥ずかしさを感じていた。それは自分がちょっと尖った作風の映画を撮ってきていたからかもしれない。 「早坂はベタだっていうけど、芝居を正々堂々と真剣に向き合って撮らなくてはダメだ!」などと言われた気がする。自分もこの作品だけのピンポイントリリーフ登板だと思っているから「言いたいことは言って爪痕を残そう」のスタンスで臨んでいた。撮影部の助手たちはヒヤヒヤしながら見ていたという。「お前は(木村)大作さんよりうるさい」と佐々部監督に言われたことは自分としては誇りに感じている。焦点距離の感覚は思った以上に近く、中望遠や望遠レンズを大胆に楽しく使用した。

 1年後『八重子のハミング』の話が来たときには少し驚いた。映画が実現しそうになった際、監督はプロデューサーに「まず早坂を押さえろ」と言ったという。自分としては生意気な発言をしすぎていたのは自覚していたので次はない、と思っていた。前述のとおり「仕事は来た順番」主義だが、佐々部監督は半年以上前からスケジュールを決めてくるので(たいていは2~3か月前が多い)、断る理由が全くない。『八重子のハミング』の撮影に関する詳細は以前に書いた稿に譲るが、プロデューサーをかねた監督が禁酒までして作品に奉じていたことは特筆しておく。

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『八重子のハミング』クランクイン前日。手が空いたスタッフ全員での椿の花拾い

 その後、原田マハのベストセラーのドラマ化作品『本日は、お日柄もよく』('17)、本城雅人原作『ミッドナイト・ジャーナル』('18)とタッグを組ませてもらった。この頃になるとすっかり息が合うようになり、監督が求めているものが瞬時に判断できるようになった。監督からの信頼も感じられるようになり、よりいかに現場をスムーズに進めるかが自分の主な課題となった。

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『本日は、お日柄もよく』より。美術部のしっかりした飾りに喜ぶ監督

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『本日は、お日柄もよく』打ち上げ。監督の乾杯のかけ声

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『ミッドナイト・ジャーナル』空撮。高所恐怖症の監督に無理やり乗ってもらう


 2019年年始には、10年来の企画であった『約束のステージ~時を駆けるふたりの歌~』の撮影が始まった。“歌謡曲”をモチーフにした作品は佐々部監督の醍醐味であり、撮影期間は終始和やかで実に楽しそうだったのが印象的。

 “佐々部演出”というものがあるとするならば、圧倒的に役者を肯定することで信頼のキャッチボールを高次元で行うということだと思う。土屋太鳳さんも百田夏菜子さんも絶大な信頼を監督に寄せていたことは明らかだ。そして自分が撮影を楽しむことによってキャスト・スタッフのモチベーションを高めていくという還元を行う。

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『約束のステージ』祝勝会で。実に幸せな3ショット。この後はカラオケヘ

 そして、まさかの遺作となってしまった『大綱引の恋 』。毎年9月に行われる薩摩川内市の歴史由緒ある大綱引き。2019年に撮影予定だが、1年前の2018年に祭りの実景撮影を行った。この時点で俳優は決まっていなかったが、翌年の実際の祭りの日に台風がぶつかる可能性もあり、なるべく前年で素材を撮っておくというプランだ。そしてその予想は的中。2019年の祭り当日は台風の中で執り行われた。道路を封鎖して役者と300人のエキストラを入れて祭りを再現した撮影分と前年に撮影した実際の祭りの素材をメインに組み合わせてクライマックスシーンは組み立てられた。年をまたいだ準備の勝利だ。

 “準備”という言葉を佐々部監督はよく口にする。「(映画)撮影は準備だよ」ーー。この言葉が実証されたのが前述の国道を封鎖し300人のエキストラを呼んでの大綱引き再現シーン。18:30に撮影を開始し22:00には終えないといけない。正味3時間半の勝負。(カットの)割り本を見ると100カット前後あった。単純に割り算すると2分で1カット収めないと成立しない。ほかの組だとカメラマンである自分が内容を整理し、時間内に収める方法論を監督に進言することが多い。今回さすがに不安なので「(佐々部)監督、これもう少し単純化しないと難しくないですか?」と言うと「ああ、早坂ちゃん、大丈夫、大丈夫」と取り付けない。目線の方向に関しては意見の相違があったので、監督の部屋でふたりで整理はしたが、カット数自体は変更しなかった。

 自分の中にも「もし撮りきれなかったら」の腹案はあるにはあったが、今回は監督を信じやってみることにした。

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モブシーンになると監督自らマイクを持ち、陣頭指揮を執る。いつもの光景

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最前線で監督が声を張るとチームはひとつになる

 怒涛のまとめ撮り。いつもは役者に丁寧に説明して演技をつけるが、この日に限っては「こっち見て! 喜んで!」といった感じで矢継ぎ早に撮影していく。テストもほぼしない。丁寧にやると撮りきれないということを監督自身が分かっている。硬軟自在な戦術を用いることができるのが助監督経験が豊富な佐々部監督の真骨頂。こちらも負けずと声を張り上げ、上から目線で申し訳ないが「やるな、監督」と心でほほ笑んでいた。

 「カーット! お疲れさまでした!!」と撮影終了の監督の声。時計を見ると21時前。なんと1時間以上巻いて撮影は終了。想定カットはすべて撮影している。これにはさすがに舌を巻いた。

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芝居の段取り後、カット割りを整理している。ここで私の意見が反映される

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佐々部監督の台本。準備はするが、芝居を見て割りをあっさり捨てることもできる

「演出は技術」ー。そういう話をよく監督とした。

 今は助監督経験のない監督がもはや主流となりつつあるが、経験値の力は計り知れない。様々なトラブルへの対応、役者との信頼関係の築き方、スタッフとの接し方。それらは佐々部監督の場合、助監督経験を経て手にしたものだ。キャスト・スタッフからの圧倒的な信頼は、「現場での余裕」として現われる。ジョークや笑いが絶えない現場というのは突如として生じるものではない。佐々部組の現場はよい教育現場だと思っており、実際若い監督志望の人には「佐々部組につきなよ」とよく言っていた。

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『大綱引の恋』ラストシーンの撮影。まさかこれが佐々部組の最期になるとは…

 2020年3月31日昼前、プロデューサーから電話をもらう。「あのね、佐々部清監督が亡くなりました…」。意味がわからない。数日前に今秋撮影予定の新作映画のやりとりをしたばかり。「佐々部節満載ですね」などと軽口をたたいたりしていたのに…。

 心疾患によって準備で訪れていた故郷・下関、しかも定宿にしていたホテルでの急死。コロナ禍による外出禁止要請によって通夜・告別式は近親者のみで参列も禁止された。どうしていいかわからない。これから5本も10本も愛想をつかされるまで“佐々部映画”を撮るつもりでいた。佐々部組常連の俳優・伊嵜充則と電話で話し、泣いた。監督とのコンビを“タケシとキヨシのツービート”と称した升毅さんは居ても立っても居られず下関まで行ったけど、やはり来ることを拒まれ、下関駅で黙祷を捧げたそうだ。残された佐々部組の面々は喪失感はあるけど実感が伴わない。告別式にも参列できず、お別れ会も開くことができない。

 翌日夜、再び伊嵜と電話し、皆で集まらずに何かできないか考え、おのおの献杯写真を送ってもらいコラージュすることを発案。告別式に間に合うようにつくることにした。升さんにも発起人に名を連ねてもらい、各所に連絡し作ったのがこの献杯コラージュ。

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f:id:shin1973:20200409043352p:plain 皆、ショックを受けながらも懸命に笑顔をつくってくださった。なかには明らかに目が腫れている方もいる。「笑顔なんかつくれないよ」という理由で参加を見合わせた方もいる。でも佐々部監督への想いは皆共通だと思っている。

 自分が参加したのはここ6年程度。“佐々部組”としてはかなりの方が抜け落ちている。今は出来るだけの方に当たってコラージュの最終版をつくっている。

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佐々部清監督(1958.1.8~2020.3.31)

 「組」を持たなかった自分が、しつこいほどの“佐々部組”としてのアイデンティティをいつのまにか持っていたことに気づく。芝居を見る眼にしても、現場の雰囲気づくりにしても、はっちゃける打ち上げにしても、すべて真剣だった。下戸だけど、打ち上げ等では絶対に監督より先には帰らない、という謎のルールを自分に課した。

 「早坂ちゃんは飲まないのによく付き合うよな」と何度言われたことか。ルールだからです。自分も監督に負けないくらい打ち上げに真剣に参加していたのです。

 佐々部清という誰にも愛された監督を喪ったことは日本映画界にとって大きな損失なのは間違いない。これから円熟味を増した演出で傑作群が生まれるはずだった。見知らぬ傑作を観れないのは残念であり、途絶された監督の映画への想いを考えるとただただ無念だ。今はそっと手を合わせることしかできない。

 ありがとうございました、佐々部監督。

 

 カメラ横で耳鳴りするほどの大声をもう一度聞きたい。

 

    ヨーイ! スタート!!

 

 

                          佐々部組カメラマン 早坂伸

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『群青色の、とおり道』撮影部と佐々部清監督