陰翳礼賛~chiaroscuro~

Cinematographer 早坂伸 (Shin Hayasaka、JSC) 

◼︎連続ドラマW『誤断』撮影について

・撮影を担当したWOWOW連続ドラマW『誤断』が22日よりオンエアされます(全6回)。原作は堂場瞬一氏の同名小説。製薬会社の公害とその対応を描いている。監督は村上牧人、古厩智之。出演:玉山鉄二小林薫柳葉敏郎蓮佛美沙子中村敦夫ほか。

ドラマWを手掛けるのは初めてだが、フォーマットに規定がないという自由さが有り難かった。最終納品携帯がHDCAMで60iであれば何でも構わないとのこと。ドラマであるから30Pかな、と勝手に思っていた自分にとって24Pの選択肢はとても嬉しい誤算だった。まず、面識がないのに自分を撮影に呼んでくれたPや監督が口にされたのが拙作『愛の渦』(三浦大輔監督、2014)を観てとのことだった。あの作品はグレーディングのテストや実作業時間を確保出来たために作り上げることが出来たトーンを用いている。そのようなルックを求められているなら、グレーディング作業は必須でRAWやLOGを用いらなければならない。ドラマ撮影は長期間にわたり、膨大なデータになる。後でグレーディングするとなると恐ろしい作業量になる。なので現場でルックを作っていくライブグレード作業が必要で真っ先にそのことをPに伝えた。

・グレーディングは旧知の山口武志氏の会社GLADSADに頼んだ。コマーシャルベースの会社だがスキルアップには長物も手掛けないとならない、という山口氏に考えで厳しい条件であったが引き受けて貰えることになった。ただ現場でルックを作ってそれを吐き出すだけではなかなか統一感を出すことが難しいのは予見出来たので、①現場でのルック作り ②グレーディング作業 ③EDIT後のカラコレーーという段階を踏むことにした。これが可能だったのもGLADSADのバックアップのおかげである。

・カメラはグレーディング行程を考えてもなるべく多くの情報を良い状態で撮っておきたい。ただしRAWはオーバースペックなのでLOGでの撮影が望ましい。ファーストチョイスはARRI AMIRAとPLマウントシネレンズの組み合わせ。見積書を携えPと掛け合ったが予算と合致しなかった。次善の策として自前のPMW-F3の出力能力に目を向ける。2011年に発売されたF3は旧式カメラと言って差し違いないが、拡張機能としてRGB444で出力することが出来る。ただし、当時この出力を収録する手立てはHDCAM-SRのデッキしかなかった。カメラの価格に対して、デッキの高額さ、このアンバランスさが実用で使われることがほとんどなかった理由である。その間にカメラは急速な発達をし新機種が増え、このRGB444出力は忘れ去られてしまった感がある。2年ほど前に出たAJAのKiPro Quadはこの出力をレコーディング出来ることに注視し、レンタルして検証を行った。1.5G422のデータに対し、3GRGBはかなりの素直さが見受けられ、グレーディング耐性があるとみなした。ただこのプロセスで収録を行ったという話は国内外で聞いたことがなく手探りで検証作業を行った。

・レンズは予算の関係で自前のスチール用コシナツァイスZFシリーズを中心に使用した。18、21、25、28、35、50、85mm。この他にフォクトレンダーコシナが生産している)40mm、ニコンAis105mm、80-200mm、といった構成。問題は50-85の間を埋められないことだ。ここにはいつものことながら苦しめられた。シネレンズのツァイス・ウルトラプライムには65mmがあるのだが、スチールでこの辺りは数少ない。フォクトレンダー58mmを今度購入してみようと思う。

・現場では出力データをKiPro Quadで収録。そのデータをda vinchでライブグレードしLUTを記録していく。その際に大活躍したのがQTAKEというビデオアシストソフトウェア(http://www.ask-media.jp/qtake-hd.html)。それだけでなくカットをシーン順に並べていき、いつでもワンタッチで観たいカットを見ることを可能にした。撮影も慣れてくるとスタッフもそれが当たり前になって有り難味を感じなくなっていたように思えるが、GLADSADは大変高額なソフトを快く貸し出してくれた。

・自分が考案したワークフローは以下の通りである(現実にはさらに修正した)。


撮影で最も怖いのは事故によるデータ喪失。リスクヘッジするために何重にも安全策を取った。マスターデータはKipro Quadだが、カメラ内でSxS4:2:0、Samurai BradeでLUT適応済みProres4:2:2。GLADSAD社で元データを保管し、グレーディング後のデータも保管した後で初めて編集部に運搬するというカタチを取った。毎日撮影することを考えるとオーバースペックだが、G社内で担当者をつけてくれたおかげで成立させることが出来た。こういったデータバックアップ作業はデジタル撮影時の最大の課題である。

・ルックに関しては、重厚感を出すことを念頭に置いた。全体的にブルーグレーで曇った感じを狙いたかった。ただBに引っ張るとモンゴロイド特有の濁りが出てくる。フェイストーン付近を逆のRに引っ張ることで単色化を避けた。当初、人物の抑えライトは色差を作るために色温低めにライティングする予定だったのだが実際やってみるとグレーディングで十分持って行けると判断し色差ライティングはやめた。

・画角やパースペクティブ、トーンとしてはエドワード・ホッパーの絵画を意識した。メインの村上監督がフィックスや小津映画を好むというところで意気投合したため、このラインを発展させようと考えた。パースはなるべく出さない、被写界深度は深く取る、ノーフィルター、不必要なドリーはしないー。完全に時代に逆行している撮影スタイルだがこの作品にはとても似合うと考えた。役者の芝居の邪魔にならない撮影が自分の中での最大のプライオリティ。どこまで完遂出来たかは分からないが、役者の芝居を撮ることは出来たと思っている。

◼︎『いしゃ先生』撮影のこと





永江二朗監督『いしゃ先生』が昨日、11/7より、山形県内の全ての映画館で先行公開された。ちょうど1年前の10月下旬から11月上旬と今年2月に冬編の撮影を行った。蔵王を挟んだ隣の宮城県出身の私にとって、東北の四季を撮るということは特別な想いがある。上野プロデューサーから話を頂いたのは撮影の1年半位前だったと思う。内容も知らず、まだ監督も決まっていなかったが『是非、やらせてくれ』と自薦したのを覚えている。
監督は永江二朗氏に決まった。永江監督と初めて会ったのは10年近く前、同級生が監督したVシネの現場で助監督としてであった。「自分、結構できます」感をアピールしてくる彼に対し、厳しく当たったのを記憶する。ドリーを彼が押すのだが、いろいろと合わない。罵倒したこともあった。彼にとって自分は“面倒くさいカメラマン”であったことは想像に難くない。小さい作品で顔を合わせることもあったが密接に関わったことはなかった。
3.11直後。宮城の実家と岩手の三陸海岸の母の実家で育った私はとても傷ついていた。仕事も震災の影響で流れ、明日がどうなるかも分からない。そんな時に永江監督から電話が鳴った。「今度小さい作品やるんですけど、早坂さんにお願い出来ないかと」ー。聞けば低予算ホラーオムニバス作品で諸々厳しかったが、“面倒くさい”先輩カメラマンに話を振ってきた意気込みが嬉しかった。その一本『鈴の音』という作品は、ヒューマニズム溢れるホラーとして高い評価を得た。撮影した自分としても誇れる作品だ。

その後は声を掛けられてもスケジュールが合わなかったり、一緒にやっても彼がチーフ助監督であったりガッツリ一緒にやる機会はなかった。久しぶりに組んだ作品がこの『いしゃ先生』である。秋の撮影に向け、監督、制作部、美術部は夏から山形に入り、準備を進めた。“時代物”と呼ばれる作品は衣装や美術など、どうしても予算が掛かる。しかし今回の作品は協賛金や寄付金などで成り立っている作品。当然潤沢な予算などあるはずがない。メインの場所となるのは実際に志田周子さんが使用していた診療所が奇跡的に納屋として残っており、これを改築して使おう、という英断が下った。中心となったのは美術の親方、遠藤剛氏(写真、オレンジの男性)。

少人数のスタッフとボランティアの方々と数ヶ月かけて大井沢診療所を復元させた。

明らかにギャラ以上のことをやっていることは明白。遠藤氏は「永江二朗を男にする」という意気込みで参加していた。そんな漢気を見せつけられると他のパートも負けてはいられないのである。“映画バカな映画人”が集まって撮った作品、それがこの『いしゃ先生』だ。

カメラは自前のソニー、F3。そろそろ旧式の部類に入るが、カメラはあくまで道具。絵画で言えば、筆や画材に過ぎない。大事なのはビジョンと、それを定着させる技術。新しいカメラより使い慣れた物の方が利があることも多い。「ストーリーやテーマを考えると、シンプルに観客に訴えたい。なので特殊なことは一切やりたくない」。この提案を監督は受け入れてくれた。カメラワークは必要最小限。ライティングはアヴェイラブル・ライティングと呼ばれる実際の光源に則ったものとした。昭和初期の片田舎の光源と言えば裸電球しかない。この雰囲気を壊さないようにライティングをして行った。不必要にビューティーになってしまうのを意図的に避けていった。

撮影する上で気をつけたのは、地元の人が観て「本当に大井沢の景色だ」と感じてもらうこと。その上で夏のロケハン時から一本の桜の木に注目していた。「ここが雪景色になったときに何をフレームの中心に据えるべきか、恐らくこの木しかないだろう」ー。しかも桜である。春になれば当然色づく。ストーリーは長年に亘る。四季折々の中で、志田周子という人間を寡黙に見つめていた象徴として画に収めた。この桜は診療所からわずか数十メートルの位置。樹齢は分からないが実際に周子先生を観ていたかもしれない。

2月に仕切り直して撮影した冬編。積雪4、5メートルの現場には、さすがに隣県出身の自分も驚いた。こんな雪の中を周子先生は一人で診察して回っていたという事実を、恥ずかしながら初めて少しだけ実感することが出来た。(写真はロケハン中の永江監督)

ライトもダウンジャケットもヒートテックもゴアテックスもない時代、村人は病人を20キロ離れた隣町に運んだという。その情景の再現が冬編のメインであった。“ツブし”と呼ばれる擬似夜景撮影であるが、あいにくの快晴。直射日光が当たるとコントラストが上がり夜の感じが出にくくなってしまう。うまく行くかどうか分からなかったが、グレーディング作業によって“夜”を創り出すことが出来た。カラリストの山口武志に感謝。松明を持ち雪山を歩く一行のカットだけは薄暮撮影で押さえたく、無理を言ってリテイクさせてもらった。

伝記映画というのは難しい。人生を2時間弱にまとめることは至難の技だ。そんなジャンルでも傑作があって、意識したのは稲垣浩監督『無法松の一生』と木下恵介監督『二十四の瞳』。それらが傑作足るのは、無情の中でも必死と生きる姿が活写されてるからだ。『いしゃ先生』がそれら傑作と肩を並べたとは思わないが、志田周子という女性の生き方には何かを感じずにはいられない。
企画から携わった脚本のあべ美佳さん、岡、上野両プロデューサー、主演の平山あやさんをはじめ、この作品に関わってくれたキャスト、スタッフ、ボランティアの皆さんに心から感謝します。誰に観せても恥ずかしくない作品に仕上がったと思ってます。