20130719
■蓮實重彦『映画時評2009-2011』をチラチラとめくる。「群像」に掲載されたかどうかは分からないけど「追悼アンゲロプロス」という断章があって、40年来の交友を小さなエピソードを交じえて書かれている。日本でのテオ・アンゲロプロス監督の評価は、蓮實氏をはじめ、フランス映画社の柴田駿氏、翻訳を一貫して手掛けた作家の池澤夏樹氏の三者に依るところが大きい。アンゲロプロス作品はフランス映画社の“bowシリーズ”の中核でそれは最後まで揺るがなかった。アンゲロプロス、ヴェンダース、ジャームッシュは80年代後半からのミニシアターブームの柱であったことは間違いなく、その一人の喪失(撮影現場での死)は“映画”の今後の在り方に翳を落とす。ヴェンダース、ジャームッシュがいち早くデジタルテクノロジーに対応したことに対し、恐らくアンゲロプロスは35mmフィルム以外に見向きもしなかっただろう。
むしろ出来なかったと言う方が正しいかもしれない。華麗なクレーンワークと長回しによる映像の重厚さをデジタルで再現することは悉く不可能に近いと考えたに違いない。ギリシャ通貨危機の中での映画撮影は困難を極めただろう。時代にそぐわなくなりつつあった中での現場死はフィルムのそれのメタファとして容易に作用する。
■「Photography」は「フォトス」と「グラファイン」というギリシャ語が語源で、それぞれ「光」「描く」という意味。“光で描く”が「Photography」ならば、日本語の「撮影」は“影を撮る”。足し算の社会と引き算の社会ーなんていうのは穿った見方だろうか。