陰翳礼賛~chiaroscuro~

Cinematographer 早坂伸 (Shin Hayasaka、JSC) 

◼︎『blank13』撮影について。


『blank13』(ぶらんく・じゅうさんと読む)は俳優斎藤工氏が、“齊藤工”名義で監督する初長編映画である。監督とは今までご一緒する機会はなく、今回の現場が初めてであった。ラインプロデューサーから依頼を受け、スケジュールが立て込んでいたが調整することが出来た。監督がかなりの映画ファンであることは聞き及んでいたのでかなり会うのが楽しみだった。監督自身のスケジュールがかなりタイトなので、スタッフ側である程度イメージを共有して監督に提示、承認、という段取りを行なった。監督が参加するメインロケハンは、東京→足利→御殿場という大移動だったが1日にまとめることが出来た。
トーリーは、原案のはしもとこうじさんの実体験が元になっている。子供の頃、家を出て行った父が13年後に死期を迎え再会し、死後今まで知らなかった父の本当の姿を周りから伝えられる、というものである。脚本の構成上、時間軸が前後するのと、前半と後半の映画の創り方がガラっと変わるところが面白みでもあり難しいところだった。とりあえず、監督からどのような作品のイメージを持っているか聞き出すことが先決であったが会う機会も限られていたので、メールでのやり取りを主に行なった。具体に出てきた固有名詞は、ショーン・ペンインディアン・ランナー』、グザヴィエ・ドラン『Mammy』、ヴィム・ヴェンダースパリ、テキサス』、成瀬巳喜男浮雲』、ロベール・ブレッソン作品群といった感じ。挙げられた固有名詞から考えて小手先ではやらずに大上段に構えていこうと考える。ただ監督には“普通の感じ”を壊したい、という意図もあったのでそこのさじ加減は難しいと感じた。フレディ・フランシス『ブルー・ヴァレンタイン』のようにエスタブリッシュメント・カットを省いた撮影スタイルやウルリヒ・ザイドル“パラダイス三部作”のシンメトリーフィックス撮影スタイルなどを提示した。どの作品や人名にも即座に反応出来る監督の映画力の高さにはとても感心させられた。監督のカバンにはいつも映画本が入っており、打ち合わせの時はロベール・ブレッソン『シネマトグラフ覚書』、ロケハン時には潮田明彦『映画術』。『シネマトグラフ覚書』は自分の中でも殿堂入りしている映画本だったが潮田監督の『映画術』は未読だったので後日読んでみたが、これが素晴らしく名著だった。今では周囲に勧めている。

撮影は4K納品だったので、古屋幸一カメラマンに相談してRED SCARLET Wをお借りした。自分はSONYかARRIをメインに使用しているため、やや不慣れで不安もあった。圧縮RAWとRED CORDの感覚の把握にいささか時間がかかった。いつも以上に慎重に露出を切った。レンズはZeissコンパクトプライムとCanon CN-E30-105、それとFマウント変換して自前のZeiss ZF群。シャープネス優先でノーフィルター。照明はオフィス・ドゥーイングの田島慎氏に、DITはGLADSAD池本富美枝、グレーディングはGLADSAD代表山口武志にお願いした。9/3にクランクイン、11にクランクアップ。9日間の撮影だった。13年ぶりに父親と再会する屋上のシーンと葬式でのアドリブシーンではBカメの応援を呼んだ。前述は神田創氏に、後述は古屋幸一氏に来てもらった。

前半はしっかりとした映画的文法で家族の歴史と関係性を描く。息子から見た父親。そして残された母とその苦労。唐突に告げられる父の余命宣告。13年ぶりの再会ーー。リリー・フランキーさん演じる父親の存在感がとてもリアル。これだけ芝居っ気のない演技を出来る人はそうはいない。もっぱら演技という意識すらないのかもしれない。ブレッソンのいう“モデル”とはこのような人ではないだろうか。高橋一生さんは余白のある芝居が出来る。観てる人はその空間を埋める作業を行わなければならない。観客との共犯関係、双方向性演技とでも言うべきか。神野三鈴さん演じる華奢でありながら奥底の芯がある母親像は実に痛々しい。自分を置き去りにした夫に対し、愛憎半ばの感情は表面上には決して表れることはない。その懊悩を感じ取ることがこの映画の肝ではないかと思っている。

後半は映画のセオリー通りではなく、「反=映画」的な箇所も織り込もうとしたが果たしてうまくいったかどうか。職業カメラマンの習性として、状況説明や人物配置、ライティングを編集のことも考慮し過不足なく捉えてしまう。これは今後の大きな個人的課題。俳優各々の個性、編集や音楽などポスプロ担当者の哲学、監督自身の普通に収まらない統括力など、テーマは家族という普遍的なものであるが全体としては非常に独創的になっていると思う。一筋縄ではいかないので賛否あるとは思うが、しっかりと爪痕を遺す作品になったのではないだろうか。今後の展開や観客の反応をしっかりと見守っていきたい。


監督と撮影・照明部



集合写真 by Leslie Kee

■『八重子のハミング』撮影について

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 「怒りに限界があっても、優しさには限界がない」-。4度のがん手術を乗り越えつつ、若年性アルツハイマーを患った妻を12年間介護した男性の手記を映画化したのが『八重子のハミング』(原作:陽信孝、小学館刊)である。徐々に記憶を失くしてゆく妻は自分に“長いお別れ”をしているのだと考え、夫は思い出をしっかりと紡いでいくーー高齢化社会においては誰もが直面しうる介護。佐々部清監督は7年前からこの企画をメジャー映画会社をはじめ各所に持ち込むが、内容が地味であることから受け入れられず、ならばと自らプロデューサーに名乗りを上げ制作された。佐々部監督は昨年夏、『種まく旅人 夢のつぎ木』(撮影:阪本善尚氏)撮影中に母を亡くされ、その死をクランクアップまで隠しつつ撮影を続行したという。母の死を看取ることが出来なかった想いがこの作品を撮ることに向かわせた。主演には升毅と30年ぶりにスクリーンに戻ってきた高橋洋子。当初佐々部監督は「自主映画」と公言されていた。「プロのスタッフ・キャストで自主映画はないでしょう」というスタッフ意見もあったが、「勝手に作った映画であることには変わりがない」ということで、“自主的映画”と呼ぶこととなった。

 

 佐々部監督とは『群青色の、とおり道』で組ませてもらっており、マルチカメラを巧みに駆使し演者の芝居の集中力を高める演出術を肌で分かっていたのでプロデューサーには最初から2カメが必須であることを伝えた。4Kは必要ではないということなので自前のSONY PMW-F3を2台使用することにした。PMW-F3はすでに旧式になり(2011年発売)、CMOSのデータ処理速度によるローリングシャッター現象が顕著でアクションシーンなどの作品には向かない。S/Nも優れているとはお世辞にも言えない。が、S-LOGの階調の素直さは特筆すべきで扱いやすく、何よりも自分にそれを取り扱う経験値が豊富にあった。今回はS-LOGデータをKiPro QuadとKiPro MiniでProres422HQで収録した。F3にはあまり知られていないがRGB444で出すモードがあり、これを使用するとグレーディングの品質が大いに上がる。実際に昨年撮影したドラマW『誤断』という作品で採用し、グレーディングで構築したその冷徹なルックは好評を得た。だが今回は現場の取り巻く環境やシンプルなルックを考慮してProres422HQで良しとすることにした。現場ではDITベースにKiProを置き収録チェックしてもらいながら、モニターには前もって作っておいたLUTを当ててもらってイメージの共有を図った。カメラ内部収録XDCAMデータはバックアップとした。レンズは自前のスチール用ZEISS ZFシリーズ18mm、21mm、25mm、28mm、35mm、50mm、85mm、100mmマクロを中心にしてNikon 180mm、300mm、80-200mm、フォクトレンダー40mm、58mmというセット。35mm、40mm、50mm、58mm、85mmはBカメ用にもう1セット用意した。自分は単焦点レンズ派のカメラマンなのでズームを好んで使うことはないが、どうしても通常のレンズセットだと埋められないディスタンスが出てくる。特に50mmと85mmの間は常に大きな問題だ。本来は65mm近似のレンズが欲しいが高額なシネレンズしかなく、今まではズームレンズで代用してきた。今回初めてフォクトレンダーの58mmを導入してみた。ボケあしがやや特徴があるが、実際に使用してみて自分でも驚くほど快適であった。カットバックの多くはこのレンズを使用することになった。レンズすべてがスチール用なのでレンズのフォーカスギアの可動域が狭く、フォローフォーカスを使わないで手送りでピントを操るので、助手にはとても苦労をかけた。

 

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 映画の内容は極めて深刻で地味なものだが、観客層を考慮すると自然と明るく見やすいハイキートーンが望ましいと考えた。ハイキーといっても抑えを当てるということではなく、リアリズムに立脚したうえでタッチめの光を強調し明るさを感じさせた。撮影時期の3月はまだ太陽高度も低く湿度も高くないため天気に恵まれれば萩という街を“光を感じ取れる”画で切り取れる。「ポジフィルムのような質感で、ハイは立っているが収まっている」というやや自家撞着ともいえるルックを目指すことにした。参考にした作品はジャック・オーディアール監督『君と歩く世界』(’12年、ステファーヌ・フォンティーヌ撮影)。これはRED EPICで撮影しRAWデータを使用した作品だがハイのラチテュードやノイズを上手く使ってフィルムの質感を再現しており、自分の指標となった。RAW収録のEPICに比べ、LOG収録のF3のラティチュードは狭いため、ハーフNDなどで高輝度部を落とすなど工夫をした。デジタル撮影の難問はローキーにおける暗部表現だが、ハイキーにおける明部も情報のギリギリを攻めるため現場での判断が難しい。カメラのセンサーが持つそれぞれの階調に加え、LUTやグレーディングが最終的にどう影響してくるかを把握しイメージし、現場にフィードバックする。撮影現場では天気や光の加減などコントロールできるものはほとんどないのでこちら側がいかに迅速に適応していくかが問われる。最大高輝度部は当然完全にクリップしてデータはなくなるわけだが、どこまで粘りどこからキレイに飛ばしていくかを瞬時に判断していく。状況が刻々と変化すること。これが映画撮影の難しさであり最大の楽しさである。老夫婦が主人公の作品であるからディフュージョン系フィルターを入れてエッジを滲ませ抽象的な美しさを際立たせるという表現も当然考慮したが、それよりも生な感じを出したいと思った。皺すらも美しく感じられるようにシャープネスを最大限生かす方がこの作品には相応しいとノーフィルターで撮影した。これは「フィルターに頼らない画作り」を標榜している自分のテーマでもある。

 

 撮影日数は13日間。1日の分量はもそれなりになり、「撮影→移動→撮影→移動」の繰り返しとなった。メインの舞台となる萩・金山天満宮は実際に八重子さんが住んでいた場所だ。アルツハイマーを患ったあと、八重子さんはいつも池の橋に立ち、夫の帰りを待ち続けた。ある大雨の日、夜遅く夫が帰ってくると彼女はずぶ濡れになり打ち震えながらも立ち続け、夫の姿に気づくと安堵し倒れこむ。この“事件”のあと夫は辞職し生涯妻に付き添うことを決心する-。この重要なシーンを地元消防団の協力を得て大量の雨を降らし撮影した。池という立地条件上ライトの位置が制限され、消火ホースによる放水のため水量のコントロールが難しく厳しい撮影となった。だがその撮影光景を近隣の方が見て涙を流していたという。「まるで本当に八重子さんがそこにいるようだ」-。実際に待ち続ける八重子さんを見てきた人にそのように受け止めてもらえることはこの作品に参加して本当に良かったと思える瞬間だった。

 萩市の北東に位置する笠山は毛利藩の禁制の地となっていたため椿の大木の群生林となっている。花をことのほか愛する八重子さんはこの場所がとても好きだったという。落ちた椿で歩道を埋める画を撮るために撮影前日に監督はじめスタッフ全員で椿の花を採集した。「自分たちは映画を撮りにきているのだ」-このようなことがスタッフの心をひとつにさせる。撮影日は穏やかな快晴で狙い通りの木漏れ日を捉えることができた。曇っていたら全く違った印象になっていただろう。低予算映画にはリテイクする余裕などない。こういう“ツキ”も作品には重要な要素になってくる。萩の三角州を捉える田床山からの俯瞰、ラストシーンやポスタービジュアルにも使われている藍場川の道、二人が教員として過ごした木間小学校、いずれも素晴らしい光に恵まれた。八重子さんからの贈り物なのだろう。

 ひとに寄り添うこと、寄り添ってもらうこと-。そんなパートナーがいる人は幸せだと思う。人間は老いからは逃れられないし、健忘症を患えば記憶は薄れゆく。いずれは土に還る身だがその人間としての尊厳をいかに守るか、守ってもらうか。誰しもが直面する問題を真剣に、たまにクスって笑いながら一緒に考えていきたい、そんな作品になっています。

 萩をはじめ山口県各所で何百人もの人がエキストラや協力で参加してくださいました。このような方々の“想い”に報える映画に仕上がったと思っております。この場を借りて御礼申し上げます。

 

 

【ストーリー】

 山口県のとあるホール。「やさしさの心って何?」と題された講演。

 妻・八重子の介護を通して経験したこと、感じたことを語る白髪の老人、石崎誠吾。

「妻を介護したのは12年間です。その12年間は、ただただ妻が記憶をなくしていく時間やからちょっと辛かったですいねぇ。でもある時、こう思うたんです。妻は時間を掛けてゆっくりと僕に お別れをしよるんやと。やったら僕も、妻が記憶を無くしていくことを、しっかりと僕の思い出にしようかと…。」 

 誠吾の口から、在りし日の妻・八重子との思い出が語られる。

教員時代に巡り会い結婚した頃のこと、八重子の好きだった歌のこと、アルツハイマーを発症してからのこと…。

 かつて音楽の教師だった八重子は、徐々に記憶を無くしつつも、

 大好きな歌を口ずさめば、笑顔を取り戻すことも。

 家族の協力もあり、夫婦の思い出をしっかりと力強く歩 んでいく誠吾。 

 山口県萩市を舞台に描く、夫婦の純愛と家族の愛情にあふれた12年の物語。

 

《キャスト》

升毅高橋洋子、文音、中村優一、安倍萌生、井上順、梅沢富美男

 

《スタッフ》

脚本・監督:佐々部清 プロデューサー:佐々部清、野村展代、西村祐一 音楽:穴見めぐみ 音楽プロデューサー:原田泰男 撮影:早坂伸(JSC) 美術:若松孝市(APDJ) 照明:田島慎 装飾:柳澤武 録音:臼井勝 編集:川瀬功(JSE) 記録:山下千鶴 助監督:山本亮 製作担当:馬渕敦史 スチール:下瀬信雄 

 

《作品データ》

2016年/日本/ビスタ(1:1.85)

製作:Team『八重子のハミング』 シネムーブ/北斗/オフィスen  協賛:萩市

配給宣伝協力:アークエンタテインメント

http://yaeko-humming.jp

 

 

(『映画テレビ技術』2016年10月号掲載記事と同様のものです)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■ケン・ローチ監督『ジミー、野を駆ける伝説』

先日二度目のパルムドールを獲得したケン・ローチ。昨年公開されたこの作品は未見だった。原題は『JIMMY'S HALL』。ホール(集会所)が物語の根幹であり、ジミーという人物の伝記を描くことが主題ではないのでこの邦題はとてもいただけない。同じアイルランドを舞台にした傑作『麦の穂を揺らす風』をイメージさせる狙いなのだろうが、あまりにも稚拙と言える。以前ローチ作品を配給していたシネカノン岩波映画ならこんな改題は絶対にしなかったはずだ。
抑圧との闘いにおいてスケープゴートとなった主人公及びホールが何を物語っているのだろうか。カソリックプロテスタント、英国との独立戦争アイルランド内戦、共産主義と右派の対立、地主と小作人の闘争、これらの対立軸が入り乱れる混沌。1930年代が舞台だが、反共がファッショを生み出し第二次世界大戦に突入していくことになるのは歴史の事実だ。この混沌の幾つかは今でも偏在するし有り様自体が現代を表しているとも言えよう。ただし、90年代に見られたケン・ローチ怒りや反骨さはやや薄らいだ印象を受ける。近作もファンタジー要素があったりコメディであったりする。年老いたというのは簡単だが、撮影監督というスタッフィングの側面から見てみようと思う。

https://youtu.be/iUQ9s2ex4HE
JIMMY'S HALL オリジナル予告編

ローチ作品で著名な撮影監督は二人。クリス・メンジス(『ケス』『ルート・アイリッシュ』等)とバリー・エイクロイド(『リフ・ラフ』以下90年代作品全て)だ。そもそも師弟関係にある二人がローチ作品に貢献した度合は大きい。シンプルな構図とライティング、ドキュメンタリーに見紛うほどの演技の自然さは、多くの監督達に影響を与えた。英国のマイク・リーポール・グリーングラスベルギーダルデンヌ兄弟などだ。こにドキュメンタリースタイルはハリウッドにまで伝播し、『ハート・ロッカー』や『ユナイテッド93』など一つのジャンルを構成したとも言える。エイクロイドもいまや主な活動地はハリウッドになっている。彼の多忙につきローチはメンジスを再招集したりしたようだが、彼は彼で監督業など忙しい。それで撮影監督は若手に交代したものと見受けられる。『天使の分け前』から担当しているのが70年生まれのロビー・ライアン(Robbie Ryan)だ。


ケン・ローチとロビー・ライアン

彼は公式サイトを持っている。彼の作品を拝見すると、基本的にアンダートーンが好きでコマーシャル、PV、ドラマも担当しているようだ。
http://www.doublex.co.uk

撮影者が変わればトーンも当然変わる。映像がテクニカルになればなるほど、失っていくものもあるはずだ。自分のローチ作品に対する愛着は、その撮影の素朴さにあった。最大の長所が影を潜めているところが違和感を生じさせてる気がするのだ。


撮影は35mmフィルムだがD.I作業をしていると思われる。彩度を抑えて中間から暗部にかけて暗緑色(ティール)に転がしている。明部は立てているようだ。


クライマックスの月光下のダンスシーン。象徴的過ぎるのではないだろうか。若い頃のヴィットリオ・ストラーロロバート・リチャードソンのトップライトを彷彿とさせる。メンジスはともかくエイクロイドは絶対にやらないライティング方だ。

ライティングに正解はない。あるのは監督との、ストーリーとの、観客との相性と言える。齢80になるケン・ローチにはともかくスタイルの一貫を期待するしかない。