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陰翳礼賛~chiaroscuro~

Cinematographer 早坂伸 (Shin Hayasaka、JSC) 

■『ヴィスコンティvsフェリーニ』


NHK-BSの世界のドキュメンタリー『ヴィスコンティvsフェリーニ』を佐々部監督にDVDを焼いてもらい観せてもらった。我が家はBSを観ることができない。二人及び周囲の反目のことは知らなかった。ただ同じCinecittà撮影所で同時代に生きた巨匠監督だから互いに意識し合うのは仕方あるまい。ヴィスコンティジャン・ルノワールフェリーニロッセリーニに師事し、同じイタリア・ネオレアリスモの薫陶を受けた。ミラノ名門貴族出身のヴィスコンティ共産主義に傾倒し、中産階級出身のフェリーニカソリックの影響を受ける。ただヴィスコンティバイセクシャルによってコミュニスト達から敬遠され、フェリーニも退廃的な作品によってカソリックとは疎遠になってしまう。番組では触れられてないが二人を読み解くキーワードは“コンプレックス”だと思う。恐らくフェリーニはその作品からも感じられるマザーコンプレックスに加え、ヴィスコンティに対して出自の純粋な劣等感があったに違いない。ヴィスコンティの方はもっと深刻で、バイセクシャル加え自分の貴族出身という足枷が終始付き纏った。だから共産主義に走り、シチリアの農民をドキュメンタリータッチで捉えた『揺れる大地』などを撮った。ただ自分が如何に庶民の眼を持っていると自負しても周りはそう接しない。貴族は生まれながらにして貴族であり、それを否定する術を持たない。プレストン・スタージェスの『サリヴァンの旅』を地でゆく感じで、彼はどこかで痛感したはずだ。庶民出身のフェリーニに嫉妬したことだろう。フェリーニフェリーニで大いにヴィスコンティに嫉妬したはずだ。
改めてフィルモグラフィを見ると、2人が直接相まみえるのはオムニバス映画『ヴォッカチオ'70』だ。この作品後、ヴィスコンティは出自を前面に出した絢爛豪華な作風に転化し、フェリーニはより極私的イメージを深化させてゆく。興味深いのは、番組にも重要な証言者として出てくる名撮影監督ジュゼッペ・ロトゥンノだ。1923年生まれだから、今年で93歳になる。ロトゥンノは『白夜』『若者のすべて』『ヴォッカチオ'70』のヴィスコンティ編を担当し、翌年『山猫』を撮る。その後フェリーニ作品に呼ばれ、中後期の大部分を担当することになる。ヴィスコンティとは68年の『異邦人』で再びコンビを組むがそれが最後になった。ヴィスコンティの撮影担当者はアルマンド・ナンヌッツィ、晩年のパスクァリーノ・デ・サンティスと変遷してゆく。


フェリーニと戯れるロトゥンノ(左)

ニーノ・ロータヴィスコンティフェリーニのメインスタッフでのちにフェリーニ色が濃くなって行く。恐らくロトゥンノやロータのことをヴィスコンティは快く思っていなかったに違いない。自分から離れていった人達と。真実は当の本人が彼らから距離を置いただけと思われるが。映画のスタッフワークはJAZZにおけるジャムセッションをイメージすると分かりやすい。いろんな楽器を奏でるプロ達がその場その場でセッションし、終われば解散してゆく。ミュージシャンがそのセッションに参加するのは何かしらのタイミングが合致するからで、必然性がある訳ではない。ただヴィスコンティフェリーニといったビッグネームに板挾みになると(JAZZでいうとマイルスとコルトレーンみたいな)、本人またはその周囲の人間から旗色を決めろとプレッシャーを受けたであろう。二人の反目を深めたのは間違いなく周囲の人間だ。周りが気を遣いすぎるが為に、当の本人は何とも思っていないのに敬遠せざるを得なくなることは我々も日常目にすることがある。


映画史上最高の作曲家ニーノ・ロータ

晩年のヴィスコンティフェリーニは旧交を温めたようで、この番組もとても後味がいい終わり方をした。まあこのタイトルの“vs”っていうのもちょっと扇動的過ぎる気がするが。結局二人は自らの出自が映画の捉え方の違いになった。ヴィスコンティにとって「映画はオペラ」になり、フェリーニにとっては「映画はサーカス」なのだ。特筆すべきは二人ともそれを成し遂げた偉大な映画監督ということ。


ヴィスコンティ『山猫』より


フェリーニ『アマルコルド』より。いずれも撮影はジュゼッペ・ロトゥンノ



◼︎寺田緑郎さんのこと

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  先輩の映画カメラマン、寺田緑郎さんが3月2日に亡くなられた。享年52。
  あまりにも早逝過ぎる。
  自分よりちょうど10歳年上である寺田さんは、自分が撮影部を始める頃にはチーフ撮影助手を始められていた。今から18年ほど前、98年頃に初めて仕事をご一緒させて頂いた。
  自分は佐々木原保志カメラマンのチーフをされていた佐藤和人氏の助手をやっており、寺田さんは佐藤氏の次の次のチーフ助手だった(寺田さんの前任者は柳田裕男氏)。佐々木原さん一派において、謂わば寺田さんは本流、自分は傍流と言える関係性である。
  寺田さんは立教大学の映研出身。蓮實重彦氏の講義を受け、映研の後輩には青山真治監督がいた。大学卒業後、日本映画学校に入り撮影部となる。

  カメラマンにはバランス感覚が必要だと思う。知識、技術、体力、そして人格である。僭越ながら寺田さんには全て備わっている気がしていた。当時自分の上司でセカンド助手だった木村信也カメラマンもそのようなことを言っていたことを思い出す。「寺田さんは絶対いいカメラマンになるよ」。

  だけど、時勢というものに影響を受けてしまったのかもしれない。HDカメラが普及し始め、フィルムの仕事量は徐々に少なくなり始めていた。10年かけて映画のカメラマンに上り詰めてみたが、そのフィールドは限りなく小さいものになっていた。ひと世代下の自分らは、器用にフィルムとHDの間を行き来していた。そしてHD撮影が主流となると、それほど経験値がなくても(自分も含めて)カメラマンとして独立することが可能となってしまった。今までの一種の徒弟制度が崩れ去った瞬間だった。

  自分のことを話すと、生き残ることに必死だった。フィルム技術的にはひと世代上の先輩方には敵わない。ならばHDにフィルムの技術を持ち込み、フットワークを軽くすることで需要を見いだそうとしていた。寺田さんはどのように格闘して考えていたのだろう? その辺りのことは突っ込んで話したことはない。自分が異端者のような気がして気後れしていたからだ。「寺田さんのような非の打ちどころがない先輩カメラマンを差し置いて、自分がカメラマンなんかしていいのだろうか?」

  寺田さんは自分にとっていつも気になる存在だった。『どろろ』のアクションパートのカメラマンになったと伝え聞くととても嬉しかったし、石井隆監督作品の共同撮影を経て、周防正行監督の『ダンシング・チャップリン』『終の信託』(三浦賞受賞)、『舞妓はレディ』を担当された。見紛うことなき日本を代表する映画カメラマンとなられたと思った。

  ただ、数年前に癌を患ったとは聞いていた。それが再発し転移してたことは全く知らなかった。『はなちゃんのみそ汁』の撮影を担当されていたのは知っていたので全く予期していなかった。

  最後は自宅で家族に見送られたらしい。Facebookの最終更新日は2/22のシェアだった。

  昨日、通夜に参列し焼香させて頂いた。遺族に頭を下げた時娘さんが目に入った。彼女が誕生したばかりの時に自分は寺田さんと一緒に仕事していた。ベビーベッドをどうしようかと悩んでいて、佐藤和人さんが「ウチのもう使わないから、やるよ」と言って、寺田さんは無性に喜んでいたことが忘れられない。その事が頭をよぎり、涙が止まらなくなった。

  寺田さんのFBの過去の投稿を見る。11月21日の投稿は『アクトレス』を観た後のもので、

“恥ずかしながら、本当に恥ずかしながらの初オリヴィエ・アサヤス。
しばらく追っかけすっかな”

  その後追っかけは出来たのでしょうか。本当に映画が好きな方でした。