『ハザードランプ』予定通り公開の報を聞いて
先程、榊英雄監督『ハザードランプ』が予定通り4月15日より公開されるとネット記事で知りました。撮影を担当した身としては非常に心がざわついております。
まず、『ハザードランプ』製作委員会は、公開決定に至った理由をもっと詳細に説明する義務があると考えます。
「性加害、ハラスメントは、事実であれば決して許されない事であり」とあります。「事実であれば」との前置きですが、その事実であるかの確認作業はどの程度行ったのでしょうか? 榊監督に直接ヒアリングはしているでしょうが、被害者側へどの程度話を聞いたのでしょうか? 少なくとも自分が把握している被害者の方々からは「製作委員会から連絡が来た」という報告は一つも入ってきておりません。被害者ではなくとも、ある程度情報を知っているはずの自分に問い合わせがないのは何故でしょうか? 3月11日に自分の方からプロデューサーに電話し「被害者は週刊文春が取り上げた何倍もの人がいます」とは伝えました。その裏を取った上での判断なのでしょうか?
「断固非難」されている割には行動は伴っていないように感じます。今一度、調査やヒアリングされることを製作委員会には求めたいと思います。
2022年3月15日 早坂伸
榊英雄氏の報道について
週刊文春オンラインによって映画監督・榊英雄氏による「性行為の強要」が報道されました。被害に遭われ、長年苦しんでこられた被害者の方々に心からのお見舞いを申し上げます。加害者の近くにいながら犯罪的な行為を止めることが出来なかったことを深く陳謝いたします。
榊氏と自分は、俳優とカメラマンという関係性で20年以上前に知り合いました。監督とカメラマンという形でタッグを組むようになったのは2013年頃からです。以降ドラマ、Vシネ、ピンク映画を含めた商業映画、MV等多数担当させていただきました。撮影現場ではお互いを尊重し合い良い仕事が出来ていると思っておりました。
いつ頃からか「榊監督は女グセが悪い」などの噂が聴こえるようになりましたがあまり気にはとめませんでした。2016年11月、『生きる街』という映画を宮城・石巻市で撮影中に榊氏の名前は伏せられていましたが、オーディションと称したわいせつ行為を「週刊大衆」が報じました。反省したのか、以降われわれ周囲の関係者には「改心した。一切そのような行為はやっていない」と常々言ってました。発言を文面通り信じていたわけではありませんが、「信じよう」というバイアスがかかったことは否めません。
2021年2月から4月にかけて『ハザードランプ』と『蜜月』という2本の映画を立て続けに撮影することになりました。特に『蜜月』は、自分が最も敬愛する脚本家・港岳彦氏と10年ほど前から温めていた企画でした。6、7年前に榊監督の手に回り、以後榊氏が中心となり、この難しい企画の実現化を図ってくださりました。その点に関しては感謝しかありません。当たり前ではありますが、カメラマンとしてどの作品においても粉骨砕身業務に携わってきたという自負があります。
今年の2月21日、たまたま石川優実さんのブログを目にしました。タイトルは「日本の映画界には地位関係性を利用した性行為の要求が当たり前にあったな、という話」というもので、内容を読むとすぐに榊英雄氏に関することと分かりました。当該するピンク映画を撮影したのは自分であり、ブログの下の方に「カメラマン」としても出てきます。不眠不休、低ギャラと言う過酷な現場をこなせたのはひとえに監督、役者、そして作品のためと思ったからです。そんな現場の裏で、監督が女優に対し性的な要求を長期にわたって行っていたことにたいへん驚き、失望しました。またブログに張られていた過去の匿名ツイートに関して、それが榊氏の行ったことであるならば明らかな“犯罪行為”であり、許されるものではありません。「週刊大衆」の報道、石川さんのブログ内容、周囲から聞こえてくる噂などを統合すると、長期にわたり榊氏は常套的にこの手段を使って性的要求をしていたと判断しました。一連の榊氏による“悪の連鎖”の一部に作品の映像クオリティを担保する撮影者である自分も組み込まれていることに強い憤りを感じました。
石川さんのブログを「見て見ぬふり」することは自分も紛れもなく「加害の一部」になります。同じような被害者をもう出してはいけないと考えました。映画の公開も近づくなか、「映画カメラマン」としての自分よりも、「一人間」として苦渋の選択を行いました。ブログを拡散するということです。
ただし、一縷の望みを託して拡散する前に『蜜月』プロデューサー陣にブログのリンクを送りました。プロデューサーが石川さんにコンタクトを取り、善処してくれることを期待しました。ですが石川さんにも自分にも一切連絡はなく、プロデューサーが何事もなかったかのようにフェイスブックに餃子の写真を上げているのを見て心を決めました。
SNSには一切言葉を書かずリンクだけを貼りました。声高に拡散を望むのではなく自然の流れに任せてみようと思いました。未遂を含む被害の告発が想像以上に上がりました。中には実名で告発された方もおります。いまだ偏見が根強く残るこの社会で、声をあげる勇気は称賛に値します。同時に自分らは告発された方の二次被害を防ぐ責任があります。どうか個人名を探して晒すような行動は控えてくださいますようお願いいたします。
先週末、「週刊文春」の記者から取材申し込みの連絡があり受けることにしました。記事には「某スタッフ」ではなく、実名で書いてもらうことが自分なりの責任の取り方と考えました。
以上が大まかな経緯です。先ほど(3月9日23時半頃)榊氏から出されたコメントを読んで大きな違和感を覚えました。謝罪しているのは映画の関係者、家族の順で、最後に「事実の是非に関わらず渦中の人とされてしまった相手の方々」で、謝意も順に薄くなっています。当然ながら謝罪するのは第一に被害者であるべきです。また「過去のことをなかった事にはできません」とあります。過去を軽視しているような表現ですが、「性被害者」がどれくらい苦しみ悩むか全く想像ができていないように感じます。そもそも「性被害者」と認めていない点で「肝に銘じる」ことも「これからの先へ猛進」することも許されないと考えます。
繰り返しになりますが、被害に遭われた方々に心からお見舞い申し上げるとともに、今後同様なケースが発生しないよう強く発言、行動していく所存です。
2022年3月10日 早坂 伸
◾️『歩きはじめる言葉たち 漂流ポスト3.11を訪ねて』の撮影について
2020年3月31日昼前、野村展代プロデューサーから一本の電話があった。
「今朝、佐々部清監督が亡くなりました」ーー。
天と地がひっくり返るような感覚とはこのようなことを言うのか。全く現実感が追いついてこない。
亡くなった時の状況などを聞いて冷静に対応しようとするが、「人の人生がこのように閉じていいものだのか」と甚だ混乱していた。
取り急ぎ自分が連絡しなくてはならない佐々部組関係者に伝えるが皆一様に困惑していた。
野村プロデューサーから「コロナのこともあるので下関には絶対来ないでください」と強く念を押された。
日本全体がコロナパニックに陥ってた頃である。
ただ、監督の盟友であった升毅さんは制止を振り切り、新幹線に飛び乗った。
が下関に着きながらも通夜、葬儀への参列は認められず、ただひたすら駅から手を合わせたーー。
自分、野村展代プロデューサー、升毅さんの3人は『群青色の、とおり道』('14)という作品からの“佐々部組”の一員である。よく冗談で「同期だね」などと語る仲であった。その後野村さんは佐々部監督と共同プロデュースで升さんを主演に迎え『八重子のハミング』を世に出した。自分はその作品も担当させてもらっている。他に遺作になった『大綱引の恋』、ドラマW『本日は、お日柄もよく』、スペシャルドラマ『ミッドナイト・ジャーナル』『約束のステージ〜時をかけるふたりの歌〜』を手掛けさせてもらった。いずれも自分にとってはかけがえのない作品、経験となっている。
野村プロデューサーは岩手県陸前高田市の廣田半島にある「森の小舎」に設置されている“漂流ポスト3.11”をモチーフに劇場用映画を撮ろうと画策していた。佐々部監督には快諾してもらい、「森の小舎」主人役を升さんにやってもらおうと声がけしていた。脚本家も「若手の人で誰かいないかな」と野村さんに訊かれたので、自分が最も信頼している港岳彦氏を推薦させてもらった。ちなみに自分と野村プロデューサー、港氏は73年世代の「同期」でもある。自分にとっては「佐々部監督×野村プロデューサー×港岳彦脚本×升毅×早坂撮影」というこの上ない作品となるはずであった。自分の母方の姓は「廣田」といい、漂流ポストのある廣田半島の出自でもあり、そこにも因縁を感じていた。
しかし、映画は実現出来なかった。
3.11東日本大震災の後、数年間は関係する作品が数多く撮られたけど、5年を過ぎたあたりから急激に冷えだし、むしろ避けられているような風潮すら感じられるようになった。そのような逆風のなか、野村Pは奮闘していたが(港氏も何度もホンを書き換えた)、2020年初頭に映画を断念することとなる。しかし野村Pもただでは起きない。「ドキュメンタリーにしようと思います。監督は私です」。
佐々部監督にも応援してもらっているという。野村P、いや監督は録音を兼任。スタッフは2人という超マイクロ編成となった。自分はいわゆる原一男監督に代表される「踏み越えるカメラ」的なドキュメンタリー作法が苦手。「撮られたくない被写体」と「嫌悪を無視して撮影する演出」との狭間でもがいた経験がある。なので被写体の嫌悪を感知したらカメラを向けたくない。その決定権を委ねてもらいたいので共同監督という立ち位置がほしいと野村監督に申し入れ、許諾してもらった。
当初自分が考えていたスタイルはフレデリック・ワイズマン監督のようなひたすら“そこにいる”カメラ。演出をほぼほぼ入れず森の小舎及び漂流ポストを訪れる人を静かに見守りたいと思っていた。ただそれにはかなりの撮影時間が必要で(なんなら春夏秋冬)、2人とはいえ交通費や滞在費もバカにならない。スポンサーとの関係上、作品の納品時期も決まっている。なので手紙を書いて送ってくる人や森の小舎の主人・赤川さんを主体にインタビュー構成とすることとなった。ただNHKなどテレビですでに取材されているので改めて映画という切り口の必然性に突き当たってしまう。1回目のロケ撮影を終え、早くも方向性を見失いつつあった。そこに3月31日が訪れるーー。
佐々部監督の訃報を受け、途方に暮れている自分たちであったがドキュメンタリーは撮影していかなくてはならない。升毅さんにも声がけし、自分たちの“喪失感”をそのまま撮ることが恐らく今回の正回答なのだろうと思われた。前出のフレデリック・ワイズマンのような高尚な映画にはならないだろうが、自分たちの心情は真実だし、真実は誰かの心をうつだろう。佐々部監督の死がこの作品の道を開いた。自分には監督の声が聞こえてくる。
「なあ早坂ちゃん、だから僕がいないとダメなんだよ」
◾️20201101
10月29日から佐々部清監督最新作『大綱引の恋』の鹿児島での先行上映が始まった。あえて「最新作」と書いたのは、我々佐々部組スタッフ・キャストが監督の不在を受け入れられていないし、これからも佐々部作品を観たいと思っているから。また実際に何本かの遺されたホンもある。これを実現させることが出来るか。「な、僕がいないと何もできないんだよ」ーーそんなふうに言われているような気もする。
下関で佐々部監督ゆかりの地に赴き、関係の深い方々にお話を伺うことができた。改めて感じるのは、佐々部監督は単に映画を作り続けたのではなく、人と人との間に絆を築き、少しずつ縒りをかけていたと言うことだ。「僕は人たらしだから」ー監督はそのように言い、意図的であることを示唆するが果たしてそうだったか。誠実に人に対することが、数と膨大な年月によるレバレッジで巨大な“佐々部空間”を形成していたのだろう。監督個人の応援団が全国各地にあるのを自分は目の当たりにした。その空間は「映画のフレーム」には収まり切らず、外側にまで偏在する。
佐々部監督は『八重子のハミング』撮影時、「命を懸けてこの作品を撮る」と公言していた。そのことで実際に命を縮めたかどうかは分からない。だが間近で見ていた自分にとってその言葉に偽りはなかった。
もう1人、「映画に命を懸けて」亡くなった身近な監督がいる。林田賢太だ。同級生(歳は4つ下)だった林田は、自作公開中に病気で急逝してしまった。32歳だった。広義の「映画づくり」テクニックに未熟だった林田は、周りに多くのご迷惑をかけたまま逝ってしまった。大風呂敷を広げて集まったスタッフも、気づけば数えるほどしか残っていなかった。林田は「人との絆をつくる」という視点を持っていなかったと今では思う。情熱は本物でもそのエネルギーを自前だけで賄いきることはできない。そこには必ず他者の助けが必要なのだ。もっと人を信じ、助けを求めていたらと思う。
川内大綱引の大綱は365本の縄からなる。それが練り合わされることによって大綱が出来上がる。人との絆もそんなものかもしれない。一つひとつは細くて脆弱であっても、束ねられたときには絆の大木となっているのだ。そんな大木を我々は佐々部監督から遺されている。
2020.11.1 鹿児島空港にて。
林田賢太の命日に
■佐々部清監督のこと
佐々部清監督が急逝されて初七日を迎えた。
3月31日、秋に撮影予定だった映画の資金集めで下関に帰郷されていて心疾患で逝去された。「佐々部組」の残されたスタッフ・キャストたちはキツネにつままれたようだ。もしくは突然悲しみの感情に打ちひしがれる。非常に情緒不安定だ。監督はせっかち過ぎる。
「カーット!! はい、現場移動!」
そんな感じで天国まで逝ってしまわれた。エイプリルフールのジョークとしては1日早い。
さて、なにから書こう。書いてる本人が情緒不安定だからしょうがない。筆(キーボード)の赴くまま、とりとめもなくこの章をつむぐ(たぶん、あとで消したくなる)。
そもそも自分は「○○組のカメラマン」という言われ方を好まない。仕事は来た順番に受けるし、様々な監督と組むことで自分の引き出しを増やすことを座右の銘としてきた。そのなかでもひと回り以上年の離れた監督と組むときは刺激的だ。同年代の人間は見てきたものや育ってきた社会情勢が同じなため、価値観を共有しやすい。それがひと回り、ときには二回りほど離れている年下の女性監督などと組む際はさすがに緊張する。「会話が成立しなかったらどうしよう」という恐れだ。さいわいにも今まで組んだ女性監督とは皆話が通じ杞憂に終わってはいる。
最も嬉しいのは年上の監督と組まされるときだ。キャリアも技術もある監督と仕事をすることは吸収できるものが頗る多い。プロデューサーに佐々部組に誘われたときは「マジか、、」とさすがに背筋がシュッとする思いだった。『群青色の、とおり道』は低予算な地方映画であったため、監督は「いつもの佐々部組スタッフは使えないよ。自分たちでスタッフィングして」とプロデューサーに宿題を与えた。なぜプロデューサーらはほぼ面識がない自分に白羽の矢を立てたのかはいまだに謎だ。
最初の印象は「古めかしく、ベタだな」ということだった。オンの芝居をオンで撮ることに恥ずかしさを感じていた。それは自分がちょっと尖った作風の映画を撮ってきていたからかもしれない。 「早坂はベタだっていうけど、芝居を正々堂々と真剣に向き合って撮らなくてはダメだ!」などと言われた気がする。自分もこの作品だけのピンポイントリリーフ登板だと思っているから「言いたいことは言って爪痕を残そう」のスタンスで臨んでいた。撮影部の助手たちはヒヤヒヤしながら見ていたという。「お前は(木村)大作さんよりうるさい」と佐々部監督に言われたことは自分としては誇りに感じている。焦点距離の感覚は思った以上に近く、中望遠や望遠レンズを大胆に楽しく使用した。
1年後『八重子のハミング』の話が来たときには少し驚いた。映画が実現しそうになった際、監督はプロデューサーに「まず早坂を押さえろ」と言ったという。自分としては生意気な発言をしすぎていたのは自覚していたので次はない、と思っていた。前述のとおり「仕事は来た順番」主義だが、佐々部監督は半年以上前からスケジュールを決めてくるので(たいていは2~3か月前が多い)、断る理由が全くない。『八重子のハミング』の撮影に関する詳細は以前に書いた稿に譲るが、プロデューサーをかねた監督が禁酒までして作品に奉じていたことは特筆しておく。
その後、原田マハのベストセラーのドラマ化作品『本日は、お日柄もよく』('17)、本城雅人原作『ミッドナイト・ジャーナル』('18)とタッグを組ませてもらった。この頃になるとすっかり息が合うようになり、監督が求めているものが瞬時に判断できるようになった。監督からの信頼も感じられるようになり、よりいかに現場をスムーズに進めるかが自分の主な課題となった。
2019年年始には、10年来の企画であった『約束のステージ~時を駆けるふたりの歌~』の撮影が始まった。“歌謡曲”をモチーフにした作品は佐々部監督の醍醐味であり、撮影期間は終始和やかで実に楽しそうだったのが印象的。
“佐々部演出”というものがあるとするならば、圧倒的に役者を肯定することで信頼のキャッチボールを高次元で行うということだと思う。土屋太鳳さんも百田夏菜子さんも絶大な信頼を監督に寄せていたことは明らかだ。そして自分が撮影を楽しむことによってキャスト・スタッフのモチベーションを高めていくという還元を行う。
そして、まさかの遺作となってしまった『大綱引の恋 』。毎年9月に行われる薩摩川内市の歴史由緒ある大綱引き。2019年に撮影予定だが、1年前の2018年に祭りの実景撮影を行った。この時点で俳優は決まっていなかったが、翌年の実際の祭りの日に台風がぶつかる可能性もあり、なるべく前年で素材を撮っておくというプランだ。そしてその予想は的中。2019年の祭り当日は台風の中で執り行われた。道路を封鎖して役者と300人のエキストラを入れて祭りを再現した撮影分と前年に撮影した実際の祭りの素材をメインに組み合わせてクライマックスシーンは組み立てられた。年をまたいだ準備の勝利だ。
“準備”という言葉を佐々部監督はよく口にする。「(映画)撮影は準備だよ」ーー。この言葉が実証されたのが前述の国道を封鎖し300人のエキストラを呼んでの大綱引き再現シーン。18:30に撮影を開始し22:00には終えないといけない。正味3時間半の勝負。(カットの)割り本を見ると100カット前後あった。単純に割り算すると2分で1カット収めないと成立しない。ほかの組だとカメラマンである自分が内容を整理し、時間内に収める方法論を監督に進言することが多い。今回さすがに不安なので「(佐々部)監督、これもう少し単純化しないと難しくないですか?」と言うと「ああ、早坂ちゃん、大丈夫、大丈夫」と取り付けない。目線の方向に関しては意見の相違があったので、監督の部屋でふたりで整理はしたが、カット数自体は変更しなかった。
自分の中にも「もし撮りきれなかったら」の腹案はあるにはあったが、今回は監督を信じやってみることにした。
怒涛のまとめ撮り。いつもは役者に丁寧に説明して演技をつけるが、この日に限っては「こっち見て! 喜んで!」といった感じで矢継ぎ早に撮影していく。テストもほぼしない。丁寧にやると撮りきれないということを監督自身が分かっている。硬軟自在な戦術を用いることができるのが助監督経験が豊富な佐々部監督の真骨頂。こちらも負けずと声を張り上げ、上から目線で申し訳ないが「やるな、監督」と心でほほ笑んでいた。
「カーット! お疲れさまでした!!」と撮影終了の監督の声。時計を見ると21時前。なんと1時間以上巻いて撮影は終了。想定カットはすべて撮影している。これにはさすがに舌を巻いた。
「演出は技術」ー。そういう話をよく監督とした。
今は助監督経験のない監督がもはや主流となりつつあるが、経験値の力は計り知れない。様々なトラブルへの対応、役者との信頼関係の築き方、スタッフとの接し方。それらは佐々部監督の場合、助監督経験を経て手にしたものだ。キャスト・スタッフからの圧倒的な信頼は、「現場での余裕」として現われる。ジョークや笑いが絶えない現場というのは突如として生じるものではない。佐々部組の現場はよい教育現場だと思っており、実際若い監督志望の人には「佐々部組につきなよ」とよく言っていた。
2020年3月31日昼前、プロデューサーから電話をもらう。「あのね、佐々部清監督が亡くなりました…」。意味がわからない。数日前に今秋撮影予定の新作映画のやりとりをしたばかり。「佐々部節満載ですね」などと軽口をたたいたりしていたのに…。
心疾患によって準備で訪れていた故郷・下関、しかも定宿にしていたホテルでの急死。コロナ禍による外出禁止要請によって通夜・告別式は近親者のみで参列も禁止された。どうしていいかわからない。これから5本も10本も愛想をつかされるまで“佐々部映画”を撮るつもりでいた。佐々部組常連の俳優・伊嵜充則と電話で話し、泣いた。監督とのコンビを“タケシとキヨシのツービート”と称した升毅さんは居ても立っても居られず下関まで行ったけど、やはり来ることを拒まれ、下関駅で黙祷を捧げたそうだ。残された佐々部組の面々は喪失感はあるけど実感が伴わない。告別式にも参列できず、お別れ会も開くことができない。
翌日夜、再び伊嵜と電話し、皆で集まらずに何かできないか考え、おのおの献杯写真を送ってもらいコラージュすることを発案。告別式に間に合うようにつくることにした。升さんにも発起人に名を連ねてもらい、各所に連絡し作ったのがこの献杯コラージュ。
皆、ショックを受けながらも懸命に笑顔をつくってくださった。なかには明らかに目が腫れている方もいる。「笑顔なんかつくれないよ」という理由で参加を見合わせた方もいる。でも佐々部監督への想いは皆共通だと思っている。
自分が参加したのはここ6年程度。“佐々部組”としてはかなりの方が抜け落ちている。今は出来るだけの方に当たってコラージュの最終版をつくっている。
「組」を持たなかった自分が、しつこいほどの“佐々部組”としてのアイデンティティをいつのまにか持っていたことに気づく。芝居を見る眼にしても、現場の雰囲気づくりにしても、はっちゃける打ち上げにしても、すべて真剣だった。下戸だけど、打ち上げ等では絶対に監督より先には帰らない、という謎のルールを自分に課した。
「早坂ちゃんは飲まないのによく付き合うよな」と何度言われたことか。ルールだからです。自分も監督に負けないくらい打ち上げに真剣に参加していたのです。
佐々部清という誰にも愛された監督を喪ったことは日本映画界にとって大きな損失なのは間違いない。これから円熟味を増した演出で傑作群が生まれるはずだった。見知らぬ傑作を観れないのは残念であり、途絶された監督の映画への想いを考えるとただただ無念だ。今はそっと手を合わせることしかできない。
ありがとうございました、佐々部監督。
カメラ横で耳鳴りするほどの大声をもう一度聞きたい。
ヨーイ! スタート!!
佐々部組カメラマン 早坂伸
◾️『架空OL日記』の撮影について
テレビ版に引き続き、『架空OL日記』(住田崇監督)映画版を手掛けさせてみらった。映画化の話はテレビ版撮影の頃からスタッフ間で囁かれてはいた。
ただ出演者は多忙な人ばかり。テレビで見ない日はない、脚本、主演のバカリズムさんのスケジュールを押さえること自体が困難だ。
リスケを何度か繰り返し、クランクイン出来たのは昨年5月。
撮影日数自体は2週間程度であったが、キャストのスケジュールを調整するために期間は2カ月近くを要した。
衣装合わせの前にキャストの顔合わせが行われた。
勝手知ったる者同士なのに、2年ちょいの時間がそれぞれの距離をつくり、皆たどたどしい。
キャラクター=(イコール)役者本人では当然ないため、再び演じるということがとても気恥ずかしいものらしい。
ちょっとした杞憂もあったが、撮影が始まればものの3分で見事にキャラクターに再没入していた。
更衣室セットはテレビ版のものをそのまま流用した。
広いステージ端にポツンと立つ更衣室セット。なんとも贅沢なスペースの使い方である。
撮影スタイルは当然テレビ版を踏襲する。
言葉にすると、“誇張したアングルなどカメラで笑いをとらない” 。つまりは“観客にカメラの存在を意識させない”というところに尽きる。
ライティングも自然なコントラストを意識し、そこにビューティーを加えていく感じ。
カメラは常時2台なので、キーライトの角度や位置、強さには気をつかう。
テレビ版から変化したのはカメラがPXW F3からFS7mkⅡになり、4K撮りしたこと。
映画なので30Pから24Pに当然なる。
トーン(ルック)はテレビ版の“青”を踏襲しながらももっと立体的になる調整を加えた。フェイストーンと青の分離を図っている。
一番議論になったのはアスペクトレシオ(フレーム比)である。
今のDCI規格ではビスタサイズ(1:1.85)とシネスコ(1:2.39)しかない。
テレビの16:9とビスタサイズには大した印象の差はなく、シネスコではあまりにも仰々しい。
それで一部Netflix作品(例『ハウス・オブ・カード』)や劇場作品(例『グリーンカード』)で使用されている1:2のフレームを使用できないか提案した。
テレビ版のグループショットを抜き出して、各フレーム比を見比べてみた。
想像していた通り、1:2が一番グルーヴ感があり、住田監督はじめプロデューサー陣も納得してくれた。
ただDCP自体は1:1.85なので、レターボックスの状態で上映することになるがそこに気になる人はいないだろう。
機材の変更については、テレビ版で使用していたステディカムを辞め、ジンバルのRONIN2を使用した。
ステディは十二分な訓練を必要とし、自分のような見様見真似のオペレーターでは御し切れない。
それに比べ、ジンバルは修練度を多く必要としないため(実際はそんなことないのだが)、扱いやすい。
テレビ版に比べ、練馬駅前の引っ張り撮影はスムーズに行えた。
苦労話と言えば、設定が冬なのに撮影が夏ということ。
緑をグレーディングで枯葉の色に転がしている。
演者は着込むので相当暑かったに違いない。
撮影自体は本当に幸せだった。
こんなにスムーズで楽しい現場は数少ない。
テーマ曲も引き続き『月曜日戦争』を使用。映画になると変なタイアップ曲が流れて作品を破壊することもよくあるが、皆が慣れ親しんだ曲ほど満足感を与えるものはない。007にしても『ボーン』シリーズにしても『男はつらいよ』にしても。
自分としては“寅さん”のように毎年撮って公開してほしいくらいだ。
ただバカリズムさんの女装があと何年見るに耐えられるかは分からないが…。
【おまけ】
請求の件でメールのやり取りしていたら、某プロデューサーから「架空請求の件で」というメールが。
会社の監査に引っかからないといいですね。
◾️『羊とオオカミの恋と殺人』の撮影について
朝倉加葉子監督から電話をもらった際、最初に言われたのは「早坂さん、一緒にキラキラ系の青春映画やりませんか?」。自分は基本的に軟調の画に興味がないカメラマン。今までの作風も“キラキラ”は全くなく、むしろ“ドロドロ系”。そのときは大した興味も持たないままだったが、“スラッシャー監督”朝倉加葉子を甘く見ていた。pff時代から好きだった高橋泉さんの書かれたホンには、ラブコメと猟奇殺人が同居している不思議な世界が広がっていた。決して予算が潤沢な作品ではないので、世界の拡げ方は難しい。ミクロの世界観でマクロの世界を感じさせるというのが最良な選択。あとはキャラクターの魅力を具現化し、さらに肉付けしていく作業に注力することにした。メインの舞台となる壁の穴で繋がっている2部屋内部はセット。一部屋しか作る予算はないので使い回している。問題は外身のアパートをどこで撮影するか。2部屋地続きでなくてはならず、周りの環境も大事でなかなか適当な物件が見つからない。弊社の工藤哲也が撮影をしていた『聖☆おにいさん』(福田雄一監督)の現場に差し入れに行ったら、実に理想的な環境で、早速制作部に連絡しロケハンを行い、撮影地に決定した。
最大の問題は“穴”である。物語の発端である2部屋をつなぐ穴。杉野遥亮演じる黒須はここから福原遥演じる宮市の部屋を覗き見し、殺人を目撃する。リアルとリアリティ、いつもこれが問題となる。壁には当然厚みがある。これは嘘をつけない。見た目の画を撮るとして、人物が動くのをフォローするとカメラをパンするだけでは済まない。ナメである壁穴も一緒に動かないと画としては成立しない。それで美術部に30cm四方の厚みのある石灰ボードを複数用意してもらい、使用するレンズのディスタンスに合わせた大きさの壁穴を開けた。それをフィルターのようにレンズ前に固定しパンに連動するようにした。ただそれだけだと固定され過ぎて不自然なので左手で揺らして見た目感を出している。GoProの使用も検討したが、パースがキツく空間が歪み過ぎるので取りやめた。
ライフラインを止められているニートの黒須の部屋は常に暗い。月明りや街の灯りがキーライトである。スチールグリーンのフィルターを入れてレース越しにライティングしている。
殺人を目撃された宮市が黒須を追い詰める屋上シーンでは、ライティングスペースがあまりないので、マンションの壁面にネオンがある体にして、象徴的なブルーのライティングを行った。キノフロにスチールブルーのフィルターを貼って使用している。苦肉の策だったが、まあまあうまく行ったと思っている。
アクションシーンも結構ある映画だが、小柄な女性が行う殺人術ということで相手との体格差や関節を利用した動きをダンサーの青木尚哉氏に付けてもらった。現場に来ていたアクション部たちもとても興味深くしていた。ラス殺陣はよく撮影で使われるクラブを使用。1日で撮影しなくてはならないのであり物の照明だけでほぼほぼ撮影している。
カメラは弊社のSONY FS7MKⅡ。グレーディングは東映の佐竹宗一氏。『愛の渦』以来、久々に担当していただいた。明るくてクリアだが、陰影を感じさせられるトーンに仕上げることができた。この作品もノーフィルターを通した。
自分にキラキラ系を撮らせてみたい勇気のあるプロデューサーの方、連絡お待ちしてます。
『羊とオオカミの恋と殺人』公式HP→http://hitsujitookami.com